「“遊び”とは、持て余している能力を、疑似的に使ったシュミレーション。
“美”とは、感覚の遊びであり、何かを追求している際に付随して生じるもの。
もし世の中が効率的になって無駄がなくなったなら、“美”を感じる気持ちが大切である。」
…というのは大英帝国時代の大哲学者ハーバート・スペンサーの『心理学原理 第二版 第二巻(1872)』の中の言葉の意訳ですが、この遊びと美の観点は改めて定義してみたらなんとなく納得しました。
スペンサーは、一見矛盾する
「人間は、良い事は経験を積んで学んでいく」という命題と、
「人間は、生まれながらにして良い事を知っている」という命題を、
進化論によって解決しようとした人です。
つまり、良い事を経験的に学んだら遺伝によって次の世代にその感覚を引き継ぐため、生まれながらにして良い事を知っているんだ、という感じにです。
ということは、ユングとかが人間は意識を共有しているため、発想にパターンがあると考えた「集合無意識」は、スペンサーによればはるか昔に人間に進化する過程で学んだ感覚が残っているんだという事になるのではないでしょうか(勿論、スペンサーの方がユングより前の時代の人間ですが)。
その発想だけでも当時は新しかったのですが、スペンサーは更に脳の構造を照らし合わせて語っています。
「人は物事を感じて行動に移す際に、脳の複数カ所を使って対処する。そして、良い事ほど強いエネルギーを持って対処するため、脳に「良い行い」の経路(ネットワーク)が刻み込まれる。そのネットワークが遺伝として引き継がれるのだ。
更に、集団では人間は音楽や学問などに「感情」をのせることで共有し、集団にとって、個々人にとって「良い事」を見出し、引き継いでゆくのだ。
音楽が時代が進むによって単純な構成から複雑な構造を持っていくのも、遺伝によって「良い事」のネットワークが引き継がれ複雑化しているため、それに伴って「感情」も豊かになっていることとの表れなのだ。」
、、、ということまで語っています。
脳の構造と機能を論じたため「心理学」で、更に倫理的な問題を解決したため「哲学」で、社会の発展まで論じる事可能にしたため「社会学」で、というように「心理学」を出発点として社会の在り方まで考えたのがスペンサーなのです。
最もイギリスではロックやホッブスなども、人間の認知論から社会論まで結びつけて、社会契約論を考えたりしていたので、その枠組みを大英帝国の時代の科学の成果を生かして引き継いだものではあるのですが。
ただ、「比較心理学」を考え、歴史ごとに変容してきた社会を比較することによって、人間の精神の成長を読み解こうとする姿勢など、マルクスと同じ時代の人であり、また近代心理学がやろうとしていことが理解しやすくなる考えだとも思いました。
「戦争は、①人間が自分たちを守るために敵を排除しようとする感情と、②自分たちの集団の事を思いやろうとする感情があるが故に起こる。
しかし、戦争を繰り返すたびに人は自分にとって、集団にとって良いことを明晰な形で意識できるようになり、成長していく。」
という考えは、帝国主義がまさに起こっている時代ならではの考えであり、しかしいつか平和で徳の高い社会が実現するという希望を進化の中に見出していたのだと思いました。
そして、今では忘れつつあるスペンサーですが、1880~90年代の明治の日本にとっては「スペンサーの時代」と呼ばれる程、スペンサーの著作が翻訳され読まれました。
板垣退助はスペンサーの著作を「民権の教科書」とまで読んでいて、南方熊楠も渡米する際はスペンサーの著作に影響を受けた文明観を語っています。
自由民権運動というものは、スペンサーの「心理学」のような人間個人の認知の問題から作られていたのは、なんだか意外な気がしました。
もっとも、スペンサーは板垣退助に近代化はゆっくり時間をかけて行いなさいとアドバイスしてものの、板垣退助は急速に進む日本の近代化を誇って語りケンカ別れしたというエピソードもあるため、どこまでスペンサーの本質が伝わっていたのか分かりませんが。
しかも、それは1883~4年の板垣の資金源が不明な渡欧の話で自由民権運動の衰退の一つに繋がった海外視察でもあったため、色々思う事はあるものです。
今までダーウィンの進化論の社会学の転用くらいしか思っていなかったスペンサーですが、『ハーバート・スペンサーの感情論』(本間栄男 、桃山学院大学社会学論集 第48巻第2号より)を読むことで、スペンサーの『心理学原理』の意味と価値が理解できたような気がします。
さて、もう少し、スペンサーについて生涯を論じてます。よろしければ、どうそ。
■ハーバードスペンサーの生涯■
1820年にイングランドのダーヴィで生まれています。
ダーヴィは、有名なチャールズ・ダーウィンの祖父エラスムス・ダーウィンが作った協会があり、スペンサーの父は優秀な教育者であったためそこの協会の秘書をしていました。
その関係もあり、エラスムス・ダーウィンの「進化論」(チャールズ・ダーウィンより単純でラマルクの進化論に近い)の話を聞いたり、したようです。
そして1837年にはバーミンガム鉄道技師として働くかたわら、著作活動も始めます。
1840年には、10年くらい前にチャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島航海の際にもって行ったライエルの『地質学原理』を読み、ライエルのラマルク批判から、ラマルク主義進化思想を知りました。このときは、子どものときに聞いた「進化」思想を再発見する感じだったようです。
1843年には『政府適正領域』という論文を寄稿して、政府の介入領域を考える論文を書いていますが、1844年には『ザ・ゾイスト』という心理学の原型でもあるような「骨相学(骨や脳など器質的構造から人間性を評価する学問)」や「メスメリズム(精神面を霊性的なアプローチで考える学問)」を融合したような雑誌で、『驚きの器官に関する一理論』の論文を寄稿するなど、脳機能についての論文も書き始めます。また翌々年には頭蓋骨を計測する装置などを設計したり、骨相学を通して脳の機能などを学びました。
1848年には、経済誌『エコノミスト』誌の副編集長になり、そこの編集者であるジョン・チャップマンに知的なサロンを紹介され、そこでJ.S.ミルと知り合っています。J.S.ミルは経済学で有名ですが、認知論からの心の在り方などについても論じており、スペンサーは『論理学体系』をこの頃くらいから本格的に読んでいます。
1851年には、初めての出版本『社会静学(Social Statics)』を出し、骨相学などの認知論などから社会を論じ、この本は30年位後に日本で『社会平等論』として翻訳され板垣退助が「民権の教科書」と呼びました。
1853年には、叔父の財産を相続したため副編集長を辞めて、研究者として著述に専念し始めます。
1855年には『心理学原理』初版を出します(後に1870年代に第二版を出しますが、第二版は大幅に改変されています)。
この著作では、連合主義心理学ともいえる経験主義と道徳感覚論を進化論によって上手く結びつけ、その認識を社会の発展にまで結びつけて論じたところが一番の特徴だと思います。しかも、その心理学を脳の神経の構造的変化と共に、デカルト以来の認知論と合わせて論じるなど、最新の見解によって多くの物事を結びつけ、心理学をベースとして社会の在り方をまとめたのです。
ただ、心理学をベースとして社会学まで体系化したという点は良かったのですが、その体系を検証し、それを基に社会を発展させるためには、現実の分析から入らなくてはならないため、1857年には『音楽の起源と機能』という論文を書き、音楽という「感情」を表現する言語によって集団での気持ちを共有し合い、その表現手段である「音楽」が発展していくのたは社会や道徳が進化しているためだという分析を行っています。
そして1860年『総合哲学体系』(System of Synthetic Philosophy)においては、心理学を出発点と変え、社会まで語る体系の要素を強め、哲学としての体を成していきます。
また同時に『笑いの心理学』という論文なども出し、ベインという哲学者の影響もあり、今までの心理学は知性に偏りすぎて、情などをあまり分析してこなかったことの反省もあり、「笑い」という感情のメカニズムを分析していきます。
そして、1870年には『心理学原理』第二版の出版を始めます。
25年前に心理学を知性中心で語っていたのを、知名度も上がり多くの人々と交友を持つ中で、またさまざまな角度から心理学や社会学を問い直してみることで得られた見解を、あらためて「心理学」という枠組みでまとめてみたようです。
前回に比べて、感情に関する分析や道徳が形成される過程など、非常に細分化して丁寧に心理的進化を説明していきます。そして、最も注目に値するのが「比較心理学」とも言える社会を比較することで、精神の発展を問い直し、理想的な精神に進化する未来像まで考えるようになったことです。
これはまさに大英帝国が発展してきた意義を学問形で記述したとも言えます。
これによって、スペンサーの名は確固たるものになったのですが、細かい精神の成長までなかなか理解されない現状(日本人もスペンサーの多く翻訳しましたが心理学の考察はあまりされていないよう)や、周りの友人が亡くなると共に、スペンサーの理想通り発展しない社会を見る内に多少スペンサー自身ナイーブになったようです。
晩年は、孤独で転々とした生活であったようです。
特に1899年のボーア戦争の大反対は、国民にとってスペンサーに対する不信な眼が芽生えていったようです。
※『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男 、桃山学院大学社会学論集 第48巻第2号より を中心に執筆。
英語版・日本語版wikiペディアなども参照。